第1章 教えることを学ぶ
教師としての私の物語
ジェフとの出会い/ジェフと書くこと/教師も学ばなくてはならない/アトキンソン学校/私の教室で起こったこと/ライティング・ワークショップへ
バランスをみつける
初版の頃/「譲り渡す」ということ
リーディングはどうなっているの?
文学に満ち溢れた場所/二人の先生/自分で読むということ/選択が生み出すこと/リーディング・ワークショップへ/「当たり前」と「論理」
【コラム】アトウェルの学校はどんな学校?
私(まつど)は、教育学に在籍している学生ですが、別に国語の教師になる予定もなく、元々高校の数学の教師にでもなろうかと思って大学に進学したので、国語教育に関する専門的な知識もありません。
それなのに、なぜこんな本を手に取ったかというと、自身の「書く力」「読む力」を伸ばしたいと思っており、そのためにこれまでどんなことをしてきたのか、これからどんなことをしていきたいのかを考える機会を設けて見つめ直すのに役立つのではないかと考えたことがひとつ目の理由です。
ふたつ目の理由としてあすこまさんのブログで原書がよいというふうに以前知って読んではみたものの英語なので一度挫折していて、ちょうど翻訳が出たということで実際に手にとってみたところ自分の課題にも合致しているし、読書教育の本はなかなか話題性に乏しいなかでTwitterでも話題になっていて、もっとこの本を知ってもらうという意味でも、オンライン読書会を開けば読書教育の知見を広めるのに貢献できるのではないかと考えたからです。
自分が過去に受けた学校教育や実践したことを振り返って今の国語力に貢献していると思えることをいくつか書いていきます。
まず自分の読書遍歴から振り返ってみると(本当のところ、今のニーズから何が必要かを考えていくほうが成人教育の観点では効率がいいのですが)、
幼稚園
あまり家に本がなくて、自分の親も本をほとんど読まないし買わない人だったので、「家庭の医学」とか勉強もしないのにただスペースを埋めている語学学習用教材とかがあったぐらいで、本に触れる機会は、親と一緒に図書館に行って本を借りることぐらいだった記憶がある。あと買うお金を節約して「桃太郎」の絵本を描いてくれた記憶があるけど、特に面白いわけでもなく、あまり意味がないのではと思っていた記憶がある。
少なくとも今の自分だったら機会費用の観点で、働いて得た給料で絵本をたくさん買って与えたほうがいい気がする。今は共働きも当たり前になってきているので。やっぱり図書館だと制約もあるし。本が高いものという価値観は、今でもやっぱり感じていて、なかなか予算が回せないということはあるけど、もし自分が親なら無理して(それを知られずに)買って与えることに意味があるのではないかと思います。
小学校(~2005年)
図書館に定期的に通って児童小説とか読んでいた記憶があります。わりと有名な作家さんの本は手に取るようにしていて、知らない著者の本は一度は通読してみようというのがモットーで、この頃からこの習慣は守っていて、書き手が違えば、書くものの世界観も変わってくるのではないかという直観は、割と守るようにしています(最近は、書き手が多すぎて、目眩がしますが)。
ゴースト通りの怪人のようなちょっとした挿絵のついた本でストーリー性のある話であったり、タンタンの冒険といった漫画が面白いと思って、それと似たような作品を探していたのですが、なかなかそういった作品には出会えないのでした。 ちょっとエッチな本も是非読みたいと思って、大人向けのコーナーを探してみたり、自宅の本を物色してはみたものの、家には「登場人物が不倫するけどインポテンツで、最後に海に入ってお口の中に発見された死体にはお口の中にお魚が…」という面白くない本しかそれらしいのがなくて、公共図書館で探しても両性具有のなぞの生殖SFとかBLらしい本(公共図書館になぜあるのか、本当にあったのか記憶が曖昧ですが)とか経由して、多分、テレビかなにかで村上春樹を知って読み出したという記憶がある。
自分の場合は、読書が比較的好きだった。この時期の自分は小説を中心に読書していた。自分は引っ越しの関係で3つの小学校に行ったが、1つめの小学校では図書館に行った記憶がない(1〜2年生なら仕方がない)。2つめの小学校では、図書委員もしていたが、昼休みであってもあまり人が多いようではなかったように思う。図書館の使い方などの話は聞いたことがなかった。3つ目の小学校では昼休みはなぜか図書館に人が多かった記憶がある。国語の時間に図書館を活用した授業をしてくれたことは記憶にあるが、どれくらい意味のあるものだったのかはほとんど記憶にないのでよく分からない。
「読むこと」と「書くこと」に関してその関係性を考えたこともなかったし、読書感想文は嫌いだったし、PCが書くためのツールという意識も全然なかった。交流のためのツールという意識も全然なかった。ポケ書とかはこの時期に読み始めたり、他にも気になる漫画を掲載しているサイトもあったが、今となっては読み返したくてもどこにそのサイトがあったのかも行方知らずで、もしこれが今だったらログを取ったりクラウドにバックアップしたりして、PCが故障しても大事なデータを失わずに済んだだろうし、好きな漫画を書く人に対して感謝の文章を書いたり、自分がその作品を好きな理由を書いたり、「読むこと」から「書くこと」へ意識を向けることができたのかもしれない。
当時、仮にScrapboxのようなものがあって、各自がPCを一台持っていて、読書の感想をクラスで共有できるというようなことがあったとしても、「書いたものを他人に読んでもらう」という経験をする機会がほとんどなかったので、うまくいかなそうだと思ったりした。今考えてみればおかしな話で、わざわざ読書感想文を毎年書かされて、それを読むのはなぜか教師だけだし、それを読んでもらうことさえ恥ずかしいと感じていたし、他人に見せるという経験がほとんどなかった。もちろん添削された経験もほとんどなかったし、一度だけ代表に選ばれたときに書き直しを受けた際も、その指示に対してなんらかの知見が得られた記憶はない。
もし小学生のときの自分に3つだけアドバイスができるとしたら、
読みたいと思っている本を見つけ出す方法を記録しながら改善する
「読むこと」から「書く」ことにつなげることができないか。
アニメでも漫画でもいいのでなにか面白いと思うことがあれば、それを言語化してみる。その際に辞典まとめのような辞典も参考にする。 アドバイス候補
「他人に自分の書いた文章を読んでもらう機会を増やせないか」
親なんて読み手として信用できないし、友達に読書の話を振ってもあんまり続いた記憶がないし、当時なら無理ゲー。とはいえ、現在であれば、Twitterや読書メーターに感想を書けば、他人に読んでもらえるので条件が大分違うように思う。
当時のインターネットにおいて、小学生だった自分は掲示板に書き込むということへの抵抗感も強かったし、今でも特定のトピックのチャットに書き込めないところがある。一方で、読書メーターにおいてもはじめた初期の頃はそれなりに感想を書いていたし、Twitterも比較的書きやすいという気持ちがあるものの、ブログはなかなか書けないと思う。現代は、このようにどんなメディアが自分の目的にかなっているかを考えて、選んで「書く」ことへ役立てていくことが重要になっていると思う。
学校教育においてICTを活用するというような話に対して長らく眉唾ものだと思っていたのだけれど、ICTを通じてこれまでできなかったことができるようになるという経験をここ数年でしてきて、積極的に学習環境に取り込む姿勢がある人は、学校教育で扱われていなくても勝手に個人で導入していくのだろうけど、そうでない人との格差は開いていく一方であるし、そのことを伝えるにしてもそこにデジタルデバイドが存在するならば、伝えたくても伝えられない。学校教育という現場ではかなりの制約を強いられるとしても、ある程度その意義を盛り込んでいく必要があるだろうし、それをインフォーマルな形でフォローしていく場所を作ることにも意味があるのだろうと考えて、今回の輪読会を開催した。
(2019年の条件で)3つだけアドバイスができるとしたら、
「リファレンス本」を活用すること
本を読むときにEvernoteかScrapboxあたりを活用して思ったことを書くように習慣づける。何を読んだかのログを残すようにする。読書メーターやブログの感想を読んでログを取る。(Twitterは年齢制限があるので)